戦後六十年
稲佐山の上から
長崎の夜景を 一晩中眺めた
宝石を散りばめたような
まちの灯りを見ながら ふと思った
生きるとは
心のなかに 想い出という灯で
かけがえのない夜景を つくることではないか
「長崎の夜」 長崎県長崎市
絵と文:井上晴雄
1945年(昭和20年)8月9日午前11:02。上空を飛ぶ一機の飛行機から、長崎市内に向けて原子爆弾が投下された。爆弾は、長崎市の中心部から約3km離れた浦上地区において炸裂。閃光とともに上空にキノコ雲が上がった。爆風と灼熱地獄がまちを襲い、一瞬にして、市内の建物の36%が全燃・倒壊、7万2千人もの尊い命が失われた。辛うじて生き残った人々にも、その後、放射能を帯びた死の灰と雨が降り注ぐこととなる。人々は絶望の底に沈み、まちは暗闇に包まれた。
終戦から約60年の年月が経つ日、私は、長崎市内を望む稲佐山に登った。鬱蒼と茂る木々の並びを抜けていくと、目の前に、煌めく無数の灯りの渦が広がった。あまりの美しさに立ちすくんだ。
その夜景を眺めたとき、長崎が、原子爆弾の被災地だということを一瞬忘れてしまった。その明かりの数々は、優雅そのものだったからだ。ただ紛れもなく、長崎市の戦後は、あの一瞬からはじまった。無言でキラキラ輝くその光の渦を見たとき、涙が止まらなかった。暗闇に包まれた死のまちから、ここまで辿りつくまでには、想像を絶する労苦があったに違いない。この明かりは、60年という歳月をかけて、人々が手と手を取り合ってまちを復興させてともした、命の明かりなのだ。
現代は、衣食住が当たり前に提供される時代となり、戦争は、昔話として風化されつつある。しかし、私たちは、戦争でたくさんの大切なものを失ったことを忘れてはならない。また、今現在も その後遺症で苦しんでいる方が多数おられることも知っておかねばならない。
長崎の夜景を見渡しながら、この美しい明かりを二度と消してはならないと思った。
世界に恒久の平和が訪れるよう、祈りを込めて絵筆を強く握りしめた
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(作品:2007年8月制作/F12号/長崎県長崎市/夜景鑑賞士(夜景検定)1級/絵画と文:井上晴雄/風景)